2014年3月13日木曜日

ラレー自転車会社

英語版Wikipediaで英語の勉強です。素人翻訳なので正確な内容が知りたい場合は原文を参照して下さい。

原文はこちら

http://en.wikipedia.org/wiki/Raleigh_Bicycle_Company

= ラレー自転車会社

ラレー自転車会社は元来は連合王国のノッティンガムに居を置く自転車製造会社である。世界で最も古い自転車会社の一つで1887年に設立された。1921年から1953年の間は自動二輪や三輪自動車も製造していて、それが一連のラレーカンパニーの組織へとつながった。

== 歴史

=== 初期

ラレー社の歴史は1887年にノッティンガムのラレー通りから始まった。38歳で経済的に成功していたフランク・ボウデンは医者から健康の為に自転車に乗りなさいと進められたのでメサーズ社の自転車を一台購入した。ボウデンは自転車というものにいたく感心し、ラレー通りで自転車製作者を探した。ウッドヘッド、アンゴイス、エリスらは週に3台の自転車製作していた。ボウデンはその事業を買い取ることを提案した。製品が出荷され、3年後にはより大きな作業場が必要となったので、ラッセル通りにある4階建てのビルへと移った。彼は会社が最初にあった場所の記念に社名をラレー自転車へと変更した。

それから6年ボウデンは事業を拡大し、会社はノッティンガムのレントン、ファラデイロードに7エーカー半をも占める世界最大の自転車製造会社へと成長した。

フランク・ボウデン卿は1921年に死去し、息子のハロルド・ボウデン卿が男爵位と社長の座を継ぎ、次なる拡張の17年の間会社の舵を取った。

第二次世界大戦中、ノッティンガムにあるラレーの工場は信管の製造に使われた。自転車製品は平時の出荷量の僅か5%まで減少した。

1939年にラレーはアイルランドのダブリンにあるハノーバー埠頭6丁目に自転車工場を開き、その地での自転車製造に着手した。ラレーのアイルランドでの事業は拡大し1943年には拠点をダブリンのハノーバー埠頭8-11丁目へと移した。1976年に火事で焼失するまでその工場では完成車とスターメイ・アーチャーのハブを作成していた。後期のモデルにはチョッパーとトライアンフ20がある。ヘッドバッジは1960年代の後半には、連合王国での取引表示法を通過する為に変更された。ダブリン製のヘロンやトライアンフのヘッドバッジには最早「Nottingham England」とは記されず、その部分は空欄になった。

=== 原動機付き

1899年にラレーは自動二輪の製造を開始し、1903年にはラレイッテというベルト駆動で3つのホイールを持ち、2つの前輪の間に乗客 [訳注、自転車を操縦しない人] が乗り、後ろに運転手が乗る自動二輪を売り出した。しかし財務上の損失が原因で、この製品は1908年までしか続かなかった。

1930年にラレー社はアイヴィー・キャリアル社が持つ自動二輪向けの荷物用キャビンと運転手用の幌の権利を獲得した。ラレー社が製作した版の物は、配達用軽バンと呼ばれチェーン駆動でした。最初の3輪自動車に続く、2人の乗客が乗れるものは安全7型と呼ばれた。それは4シートの客室を持ち、シャフト駆動で最高時速89キロであった。特別客車版も計画されていたが、ラレー社は原動機付き部門を止め再び自転車へと注力した。[訳注、原動機付き部門の] 主任設計者のT.L.ウィリアムスは残った部品と共にタムワースへ移り、そこで彼の会社は65年間3輪自動車を製造し続けた。ラレーから持ってきた部品には「R」と刻印されていたので、ウィリアムスはそれに合うように社名を「Reliant」とした。[訳注、上記の最後の文の翻訳が不安]

1950年代後半から1960年代にかけては自転車市場が衰退していたので、ラレー社はモペッドも作っていた。その最も有名な物はRM6ランナバウトである。このモデルの特徴としては、スプリングの無い前フォークに、自転車用にキャリパーブレーキが前輪についており、手頃な移動手段となっていた。その成功にも関わらず、モペッドの販売は1971年の2月までしか続かなかった。ラレーは17か月後には全てのモペッドの製造を中止したのだ。

=== 戦後の自転車製造

第二次世界大戦後ラレーはスターメイ・アーチャーの3ないし5速の変速機を装備した軽量なスポーツ向けロードスター型自転車で知られる様になった。これらのラレーの自転車は、それ以前にあった英国式の重いロードスターやアメリカの風船タイヤを装備したクルーザー自転車に比べて、かなり軽量で速かった。1946年にはラレーと他のイギリスの自転車製造会社が作った自転車の95%はアメリカへの輸出に向けられていた。

ラレーのスポーツ用ロードスターやブリテン式競技自転車はアメリカを含む世界中に輸出された。ラレー社のアメリカへの輸出は、東ドイツやオランダからの輸入へ転じた事に起因する自転車に対する関税率が増加する1955年まで増加し続けた。しかしながら、これは一時的な後退に過ぎず、1964年には再びラレーがアメリカでの大きなブランドとして市場を占めるようになった。

=== ラレーRSW

1965年、ラレーはRSW16を発表した。これは大きな成功を果たしたモールトン社の自転車への対抗馬として期待されていた。ラレーの新車は幾つかの点でモールトンと共通の特徴を持っていた。それは小径である事、オープンフレームである事、そして組み込まれた荷台と鞄である。

しかし、RSWにはモールトンにあるサスペンションが欠けていた。モールトンはこのサスペンションによって、小径車の不利な点である路面からの衝撃に弱い事を補っていた。一方ラレーはRSWに太い低圧タイヤを装着する事で効果的に路面からの衝撃を低減したが、走行抵抗を犠牲にする事になった。それにもかかわらず、例え多少太っている人であってもRSWでの走行は快適だった。そしてラレーの広範な販売網はその成功を確実なものにした。

RSWによってモールトンの売り上げは奪われ、この新しい会社は財政上の困難に見舞われることになった。そしてラレーはモールトンを買収したが、それによって自分自身を奇妙な立場へ置くことになった。いち早く小径車として成功したモールトンと、自分たちがそれに対抗する為に作った小径車を同時に製造することになったのだ。ラレーは少しずつ売上が減少していく1974年まで両方の販売を続けた。ラレー20は1980年代まで長きにわたって成功した製品となった。

=== 拡大と合併

1950年代半ばに、自動二輪が一般にも手が届く価格になり人気を集め始めるまでは国内市場では自転車の生産高は着実に増加していった。戦後の時代に即していたこともあり、ブリテン島の自転車製造会社は互いに輸出市場で鎬を削った。1950年代には、フィリップス、ヘラクレス、サン、アームストロング、ノーマンといったTIグループの出資の元、ブリテン自転車会社が設立した。1957年にラレーはBSAの自転車部門を買収した。

BSA自身も5年前にトライアンフ自転車会社を買収したばかりであった。1960年にTIグループはラレーを買収しブリテン自転車会社に併合しTIラレーは連合王国の自転車市場の75%を占めるに至った。更にTIラレーはイギリス、ワークソップにあるカールトン自転車を吸収した時、連合王国最大の軽量自転車製造者となった。[訳注、以下の一文上手く翻訳できず] Raleigh brands acquired and marketed were Phillips Cycles and Hercules Cycle, Rudge, BSA, and Sun, however these were cheaper machines in The TI-Raleigh range. 生産拠点はノッティンガムに移っていたが、サンのブランドの自転車はイギリスのワークソップにあるカールトン社の工場で作られていた。

1960年の半ばにTIラレーは、縦割りに統合された製造社としてブルックス(世界でも最も古いサドル製造社の一つ)、スターメイアーチャー(3速内装ハブの先駆)、そしてレイノルズ(531チューブの製造会社)を所有するに至った。ハフィとのリブランドの取引に失敗した後にアメリカ市場への進出を果たせなかったカールトンは、1960年台後半にラレー・カールトンと名称を改め、カールトンのバッジを付けたラレーのロゴマークを持つ自転車をアメリカの販売業者の網を使って輸出・販売する事で成功した。

=== ラレー・チョッパー

ラレー・チョッパーが1969年4月に最初にカナダで販売された時はファストバック100という名前だった。一方北アメリカでは同年の6月にラレー・チョッパーという名のまま子供向け自転車として登場した。1970年には連合王国での販売を開始し、良好な売り上げを見せ、会社の再生に対する重要な要因となった。チョッパーは3足のスターメイアーチャーの内装ハブギアを持ち、シフターはトップチューブに装着されていて初期のハーレーダビットソン――その「クールな」特徴である――自殺シフターを想起させる物だった。他の特徴としては、特殊なフレーム、パッドの入りでスプリング付きの背もたれある長いサドル、長く高い位置にあるハンドルバー、前後輪が異なるサイズのホイール(前16インチ、後20インチ)があった。タイヤは当時の平均的な物よりも太く、後タイヤは接地面が分厚く側面に赤いハイライトがあった。価格は標準版のチョッパーが約32英ポンド、豪華版が55英ポンドだった。チッパーとトマホークという名の2種類の小型版もまたよく売れた。

改良されたチョッパー2型は1972年に登場した。初期型と同様のレバーを持ちながら、5速の内装ハブをオプションとして選択できた。2型では後輪が更に後方になり[訳注、チェーンステーが伸びてホイールベースが長くなったという事だろう]、車体がばたつき防止に一役買った。チョッパーはBMXが人気を博した事で売り上げが落ち始める1982年まで製造され。それにもかかわらずチョッパーは、世界中で100万台という売り上げでラレーを窮地から救った。

=== 再組織化と新しい所有者

1979年には、ラレーの531バテッドチューブ自転車は年間生産量10000ユニット [訳注、単位には単位unitsとあるが台数の事だろうか] に至った。1982年にはラレーアメリカの権利はハフィー社に売却された。この合意の下にイギリス・ラレーはアメリカでラレーの自転車を製造し販売する事と、即座にラレーが国中に持つ自転車店網を利用する事を認可した。アメリカ・ラレー自転車会社と名前を変えた会社は、イギリス・ラレーから受け取った自転車をカナダを含む北米で販売した。当時ラレーはブリヂストンと手を組み幾つかのモデルの生産拠点を日本に移していた。1984年までにはチーム・プロフェッショナルという旗艦製品とプレステージというロードバイクのみがノッティンガムで製造され、その他全てのアメリカ市場向けのラレーは極東で製造されるに至った。

1987年に、ドイツの自転車製造会社であるダービー社が主導してハフィーからアメリカ・ラレーを買収した。今日では、アメリカ・ラレー自転車会社の部品とフレームは、ダービー社によって中国と台湾で大量生産され、その他の工場で組み立てられている。デンマーク・ラレーは依然として古典的なロッドブレーキモデルを提供している。イギリス・ラレーでは、ワークソップにある「カールトン」工場でストライキが発生し閉鎖された。そして1981年には少数精鋭の従業員はノッティンガムに移った。最も高級な車種のフレームセットは、ゲラルド・ドノヴァン5世の助言により1974年から1989年の間イクストン・スペシャル自転車開発部によって製造されていた。この製品はノッティンガムにある新しいラレー特別製品部門へと移された。

カナダ・ラレーは1972年から2013年まで、ケベックのウォータールーに生産拠点を構えていた。

ダービー社は1999年にダイアモンドバック自転車者を買収した。

同年、ラレーは連合王国でのフレームの製造を停止し製造用機械を競売にかけた。

2000年には、ダービー社はアメリカ・ラレー、連合王国ラレー、カナダ・ラレー、アイルランド・ラレーを傘下に置いた。連合王国、カナダ、アイルランドの市場ではラレーは自転車業界の最大手である。ダービー社は会社の財務状況の悪化が原因で、一連の身売りを始めた。まずノッティンガムにあったスターメイアーチャーの工場を売却し、次にはスターメイアーチャーの事業そのものと、サドル製造会社のブルックスを小さなレナークと呼ばれていた会社に売った。レナークはカルバートンに新しい工場を作ると約束したが、最初の支払いができずそのまま事業整理に突入してしまった。[訳注、以下の翻訳自信無し。原文はIt was reported that the reason for selling the business, after extracting the cash for the factory site, was to have Lenark declare it insolvent so that neither Derby nor Lenark would have to pay the redundancy costs.] 事業売却の理由は、工場から現金を抜き取った後にレナークが倒産する事で、ダービー社もレナーク社も退職金を支払う必要を無くす為だと言われている。スターメイアーチャーの試算は台湾のサンレース社に買収され、工場は台湾に移転しオランダ向けの販売になった。姉妹会社のブルックスはイタリアのセラ・ロイヤルに売られた。

ダービー社の財務上の問題は解決せず、2001年にはアラン・フィンデン・クロフトの采配で残っているラレー関連会社の全てを売り払った。


2003年までには連合王国での自転車の組み立て工場は閉鎖し、280人の組立工は解雇された。ラレーの自転車はベトナムや他の「低賃金・高品質」な地から送り出されることになった。ただ最後の組み立て工程のみがドイツのクロッピングバーグで行われている。

2012年、ドイツ・ラレーを含むダービー社はオランダの会社であるポンに買収され、ガゼル、サーヴェロと共にグループ企業内の自転車会社を形成した。

2012年4月、連合王国、アメリカ、カナダのラレーはオランダのアクセリグループに別々に100万USドルで買収された。

※この後ラレーがスポンサーをしていた? 自転車チームの項目が続くがまだ翻訳していない

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